昭和46年04月23日 月次祭



 信心が容易う難しゅうそして、容易うと言う様にそういう過程を追うて、その容易う又は難しゅうと言うところを、又は容易いと言う所を有難く頂かせて貰えれる、いわゆる信心の稽古をさせて頂かなければいけません。金光様の御信心は難しいと一言で決めつける人が有ります。難しいからこそ味わいがある、難しいからこそ実は楽しいのです。けれどもそこのところが分かると言う所までに至ることは、やはり初め容易うと言う所を頂かして貰わなければいけない。
 心の底から金光様と、金光様を唱えただけでは、おかげが頂かれん。先日或教会の総代さんがお参りされましてから丁度応接間でお茶を差し上げましたら懐からこうお薬包の様なものを出されましてね何かと思うたら御神米が丁度この親指の爪くらいに切ってあった沢山。それをこう薬包に包んである、そしてお茶を頂くときに、お茶にそれを薬を飲むようにして頂かれる、金光様。恐らく若い時からこれを続け抜いておられるだろうとね、北野の中村さんなんかも御神米を沢山頂かれる。
 毎日毎日御神米を頂かんと気分が悪い位に御神米を頂かれます。ですからこれなんか容易いですね、金光様と願わせて頂いて、そのお米でも御神紙でもちぎってから頂かせて貰うて。ハアこれで今日一日も息災のおかげを頂けるぞと、段々段々その思いが強うなって来るね、これは御神酒さんでもよい、御神水でも良いでしょう。まそういうね、私は容易いところから、金光様そこから段々信心が分からせて貰うて。
 今日総代の秋山さんが前講勤めてられました中に、天地の親神様のお心を分からせて頂いて、信心を進めて行くと言う事。と言う事にならせられなきゃならんが、天地の親神様を分かると言う事に一生懸命ならなにゃいけい。これはいわゆる、容易い信心からもうちょっと出たところの道じゃなかろうかね、お取次を頂いてお願いをする、おかげを受ける。御神水御神米を頂かせて頂くことを、いわばそれをもう行の様に頂くと言う事。そこに今日も一日いわば息災のおかげを頂けると思い込めれる信心。
 いわゆる金光様只金光様を唱えておけばよいというのである。明けても暮れても金光様、苦しかってもいわば嬉しかっても金光様、ね、そういう信心からですいわゆる段々お話を頂かせて頂く内に、これは自分が御神米を頂いて無事平穏でありさえすればよいと言う事ではいけないと、自分だけが今日も一日強しとればそれでいいと言うだけではいけないと分かって参りますね。そこで自分中心の信心から少うし神様の心が分かり出して来るところから神様の心中心と行ったような生き方にことになって来る。
 いわゆる神様本意の生き方。私は秋山さんの話を聞かせて頂ながらねそこんところに答を出したらどう言う事になるであろうか、神様のお思いが分からせて頂いてという神様の思いとはならどういう思いでおありになるであろうかとね、私はもう一言だと思う。又はその神様の思いは一念だと思うね、只氏子におかげを頂かせたいばっかりの一念なのだ、又は氏子に力を与えたいばっかりの一念なのだ。どうぞ信心してお徳を受けてくれと言われるその一念の他には無いと言う事。
 お前が罰かぶっとるからそげんなるとぞと言う事じゃない、金光様の御信心はね、神様のね願いがそこにで。すもう只只おかげを頂かせて下さりたいという一念、今晩私はお祭り中にどの様なお話をさせて頂こうかなと思うたら、今日お供えに御神酒に珍しいお供えがあっとりましたね。清力と云うお酒が三本お供えしてありました。清い力と書いてありました。これは確か城島のお酒ですね、それから又一つ置いて向こうの方に薫杯という御神酒がやはりあれは二本でしたかね並べてお供えしてありましたね。
 薫杯ははぁ今日の御理解はこの清力、薫杯ね、清力というのはいわゆる清い力例えば我力でもなからなければ我慢力でもないね、只腕力でもない、清い力というのは自分自身の心から鍛えられた上にも鍛えられて神を信ずる力が清い力だと私は思うね、いわゆるお徳を受けるとその清い力が身に付いて来るね、我が無くなって来る、自分の思いが無くなって来る、我情我欲が無くなって来る。そういう我情我欲が薄れて行く無くなって行くと言う事が楽しみそこんところに神の願いね。
 神様の思いが分からせて頂く、その神様の思いが分からにゃならんが、その神様の思いはどういう思いなのかというと、一言にしていうと氏子真に幸せになってくれであり氏子に力を与えたいばっかりであり、この世だけではないこの世からあの世までもかけて持って行けれる、徳を与えたいばっかりの一念に燃えて居られるのが、天地の親神様だね。だからそこを一つね、だから理屈の上で分かるのじゃなくて、成程親神様じゃなあという分かる力を頂かにゃいけん。
 この辺から少し難しゅうなるけど、楽しゅうなって来る。英語が有り難うなって来る。そしてそこに徳を受け力を受けさせて頂くところからです、容易うなってくる。ちょうどその清力であり、又は薫杯であるというそう言う事からお話を進めて行くとです。やはり今朝から頂いた御理解になってくるなと思ったもんだから、ここに教典を持たせて頂いた。読んでみますね。
 御理解第九十節、上から下に水を流すのは容易いが、下から上へ流すのは難しい。道を開くというても、匹夫の凡人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇が要る。神のおかげで開かせて貰うのぞ。例え一時は難しい事があっても、辛抱して行くうちには徳が受けられる。
 それは分かりますね、上から下へ水を流すというのは容易いがと、いうけれども下から上に水を流すのは難しい。だから物事がさあ頼んだから、もう自分の思う様にばっかりなると言う事じゃ決して無い。思う様にならんこと、いや右と願っても左、左と願っても右と言った様なところが続くのだけれども、そこを信心辛抱さして頂いて居る内には、おかげが受けられると仰っていない。信心辛抱さして頂いて居る内には、徳が受けられると仰せられるね。
 その徳が受けられる所からどう言う事になるかというと、それこそ容易うにおかげが受けられると言う事になるね、何時でしたか私は御心眼に8の字を横にしたつを頂いた。それに付いてお話をさして頂いた。こっちは無学じゃけんそれが分からん、どういう意味の事か。8の字が横に寝てるけんでどういうこっちゃろかと、ばってんやっぱ病気で寝とるとなんかはやっぱ寝とるですね。8の字が寝とる。そしてからねじれるごとこうあって、腹が捻れるごとせきよる時じゃろうと私は思うた。まあ学問が無いと。
 けれどもやはり神様は学問の有る者にでも無い者にでも、ずうっと分からして下さる様に下さるのがお知らせ。私はそんな風に頂いた。だからもうそれこそ、腹が痛むの胃がせくのというて腹がよじれる様にあると言う事はです。又は人間関係の上に、腹が立ったというても、今日ばっかりはもう腹のよじれるごと腹の立つこともありますよね。今日はよじれるごと笑ろうたと言う時もありますね。それこそもう腹の中をかきむしられる様な思いをするところを、じいっとこれを寝て居ると言う事ね。
 辛抱して行く内におかげが受けられる。ここんところで辛抱出来無かったら折角の8の字が8の字にならん。これを漢字に直すと末広になる。そういう末広のおかげを頂く為には腹がよじれる様な事が起こっても、そこは辛抱しなければならんと言う様な御理解を今日頂いた。と云う様な話をしよったら、秋永先生の夫婦がここへ出てきてから「先生今日の横8と言うのは、あれはあの数学でいう無限大の記号であります。」ほうそれで尚いよいよ御理解が分かってきた。
 無限大、無尽蔵、限りないおかげを頂いて行く為には、ここを通って通って通り抜かせて頂いてですね、今朝の御理解じゃないけれども、きつい苦しいけれども有難いという信心。はあここを通らせて頂いて居ると言う事がです、無限大のおかげに繋がっていく無尽蔵のおかげに繋がって行くのだと言う事。だからここを腹が立ちまぎれに出したり、態度に出たり又は様々な問題を、もう私しゃでけんと言うて神様のいわば匙を、神様は投げなさらんけれども。
 こちらの方が匙を投げる様なことではおかげにならんことが分かります。これはしかし難しい信心ですよ。けどももうその頃には痛いけれども有難い、苦しいけれども有難いと言う事になります。今朝から私はそこんところをですね、夕べからお話しているところですけれども、日蓮上人様というお方は、もう自分の頂いておる信心が一番、もう他の信心はみんな邪道である、もう外道だ悪魔だ、けん魔だと言う様な悪い、もうギリギリの言葉で言うて居られますね。
 真言亡国と言うて真言宗はもう國を滅ぼすのだと。念仏無限いわゆる一心一この信心、親鸞上人様の唱えられたところの、浄土真宗というものがあれはね、ああいう信心をしよると無限地獄に落ちるぞと決めつけて居ります。そこのところを私は、昨日ねそれを色々思わせて頂きよったら、こりゃ日蓮が言う事もすらごとじゃないなあと思うて来る様になったね。例えばねあの真言密教なんかというのは、いわゆるお大師様とかお不動様なんか例えばこの頃からあの何とかでしたね。
 あちらにお参りさして貰ったら、大変なやっぱりその大伽藍を持った寺院なんですけども、それはもうあらゆる所にお籠り堂があったり、修行場があったりして滝をかかってこうこうやって拝むわけ、又お取次をして下さるお坊さんも拝んで下さる。そして何様が障っとるとかと云う様な事を教えられてね。そしてあのま立って行って居るという信仰なんです。私は人間がですね、例えばんならちょいと襖の押しただけで助かるとか、仏さまにお茶を一週間上げたから病気が治るとか。
 言った様な事であったら、これは人間はいよいよほんとに馬鹿んごとなってしまやせんかと思うですね。成程亡国をいった原因がその辺に、ほんとか知りませんけどあるなあと思うた。呪いなんかというのは必ず、やはり嘘じゃない効くのは効くのです。けどもあれは天地の法則の裏を行く生き方なんです。成程亡国だと思います。いわゆる今日も私がいう清力正しい力、真の信心をさして貰って真の力を受けるというのとは、やはり程遠いと言う様な気がする。
 だから改まると言う事じゃなくて、ただこうやって拝んで拝んで、そのお告げでも受けると言う様な、水を被って断食をしてと言う様な修行。それをやはり親鸞日蓮はね、いわゆる真言亡国と言う。こういう信心しよったら人間が馬鹿になって仕舞う、國が滅びて仕舞うとこう言う。そしてその当時それこそ火を付けるように、広がって行った仏教いわゆる浄土真宗をですね、お前達ああいう信心しよったら、それこそ無限地獄に落ちなければならないぞと言うたね。
 私はとにかく日蓮という人はあんまり性に合わんと、息子の悪口ばっかり言うと思いよったけど、その悪口をほんとに聞いてみるとですね、成程火の気の無い事は言うてないと言う事ね、一心一国の方お一人に頼み参らせる。南無阿弥陀仏を唱えさえすればそれは狩人であろうが、猟師であろうが、どういう卑しい仕事をしている人であろうが、もう即刻その場で助かるんだと、容易う信心を説いたわけです。南無阿弥陀仏の他に何も要らん。南無阿弥陀仏一つに一心帰依をせよとこう言う。
 一心正念とこう言う事ですね。正しい念ほんとの心、で一心に南無阿弥陀仏と頼み参らせる所にそこに、仏の救いが有るんだとこう言う。どういう苦しい事があってもどういう中にあっても、それは御仏様の四十八願の中にあるんだ、四十八願の中にあるんだと説いた。だからどういう例えば、地獄の様な苦しみの中にあっても、ここがやはり御仏の懐の中にあるんだと分からせたね。ですからやはり成程真宗の人の例えば、親鸞上人御自身がいわゆる御晩年まで、そういう意味での悩みを持ち続けたと言う事なんです。
 自分が世界もう世界中で一番の悪人だと言う様なとこに、自分というものを決めつけておいでられた訳ですね。そして自分をそこに或意味に於てのさいなまれる心、それが又御仏に向かわれた事は間違い有りませんと思います。けれどもですね、例えば今日私が今朝から申します様に、お互いが苦しい、苦しいけれども有難いというところだけに留まって居ったらね。難儀と言う事、難はみかげと仰る。難あって喜べと仰るが、難は成程みかげであり喜ばなければならんことだけれどもです。
 決して楽ではないと言う事なんです。痛いけれども有難いが、私は今日御神前で頂いたのが合楽と言う事を、何回も何回も頂いたね、楽に合うと言う事。金光様の御信心はねこの楽に合うと言う事なんですね、それがほんとは目指しなんですね、けれどもならいわゆる親鸞上人様の生き方で行くとあまりにも容易い。もうどういう例えば悪人であってもですね、それこそ善人ですら助けて下さる、御仏だから悪人なら尚更助けなさると言う親心を示しながら説いたね。
 善人ですら助けて下さる、御仏であるから悪人に於ておや。ま教祖様はそんこんところを屑の子ほど可愛いと言うて居られる。けども屑の子ほど可愛いと、言うて可愛い思いもあろうけれども、楽にはして居られんのですよ。ここのところが分からにゃね、悪人ですら助かろうけれども、その悪人はやはり悪人である。それでよいいわば報いがくる筈がない。悪い事をすれば悪い報いが来るのだ。じゅんけの家にせきじゅんの上に、よけいありと知らなかった。
 良い事をするから、それに良い事が起きて来るのだとこういう訳です。けれどもそのお前が例えば悪い事をして苦しんで居る、苦しんで居るけれども、そこもです阿弥陀如来様の懐の中にあるのだと、言われたからそこに一つの安心はでけた。けれどもいわゆる楽にはなっていないと言う事。親鸞御自身が楽になって居られなかったと言う事です。まあこれは私の見解ですけどね、まあそんな簡単なものじゃなかろうと思いますけれども、まあこれは日蓮の言葉を借りてです、何故に日蓮がね、真言亡国であるとかね。
 又は念仏無限と言った様な事を唱えたかと、言う事を成程まんざらこれは嘘ではない、火の気の無いところに、そう言う事を言う筈が無いとどういう訳で亡国か、どういう訳に無限かというて、日蓮に問いつめたならば恐らく、こういう風な返事をするのじゃなかろうかと私は思うた。ですから私は親鸞上人様の信心が、どうげなけど容易う行くと言う時には、私はそこでいい思うんですよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ねを唱えさせて頂き南無阿弥陀、南無阿弥陀と仕事をさせて頂いて居る。
 一事が万事南無阿弥陀とそこに有難いものがある。今朝の御理解の中に私言っておる様に、まだ私が十一の時に霜焼けの、それこそこう腫れておるところを、友達が嫌という程踏んだ。その時に叩こうと思うた。けれども私の爺がね何時もこれは私に言うて居った。もう総一ちゃん、いっちょだん人からくらわされたっちゃ喧嘩などしちゃならんぞと、南無阿弥陀南無阿弥陀というてこらえろち。そういう小さい心のいわゆる魂の中にそういう爺の心が入っている。
 その一瞬です足を踏まれて悔しいごとある、その鬼の様な心がです南無阿弥陀、南無阿弥陀と言うた事を覚えて、その後に涙がポロポロ流れた事を私は記憶して居る。ですから確かに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏でですね、私はその痛いですけれどもね、有難いと言う事は分かるね、そこんところを、んなら金光様金光様と言う事と同じ事なんです。だからそういう容易い所から、少しは私はましな信心、いやましな信心じゃあない、あの世にも持って行けれるという信心。この世に残しておけれるという信心。
 そういう信心を身に付けて行くことの、焦点を一つ変えなければいけない。それを今日秋山さんが言うて居られる様に、天地の親神様のお心を心として分からせて貰う、その天地の親神様の御心に添い奉る。天地の親神様の御心はどういう心かと言うと、天地の親神様のお心はもう他には何にもない、只氏子信心しておかげを受けてくれよと言う事は、氏子信心して徳を受けてくれよと言う事なんである。清力である。力を受けてくれよと言う事である。有難き勿体なき神様が注いで下さる。
 その例えばお杯はこちらの受け物なのである、返杯なのである。その杯が薫ばかりの心の状態なのであると言う事である。自分の心の中から信心の薫りが漂う程しの、受け物を持って神様が下さるところの、有難き勿体なき恐れ多きの神酒を頂かせて頂こうというのである。そこから清い力が限りなく湧いて来る様に頂けれる。その清い力こそが私は御神徳であるという風に思うね、ですからそこのところをです。
 段々分からせて頂くと言う事がですね、匹夫の凡人からですか匹夫の凡人から道を開くのじゃから物が難しゅうて暇がいる。難しゅうてその暇がいっておる間にですね、自分自身が日々の改まりの上に、本心の玉を磨くことの上に、神様の心をいよいよ分からせて頂いて、神の心に没入して行くところの信心をね、させて頂いて行く内にね、いわゆる神人といういわゆる信心とは神と人、実際は人間の姿形をしておるけれども、心はもう神様と一つになって行く程しのおかげが受けられる。
 教祖の神様はそこの所をおかげを受け初めは自分である、皆もこの様なおかげを受けられると仰せられる。だから私共そこの所を、願いとしての信心にならせて頂く訳なんです。二、三日前でしたあの真の信心生活とは、神の願いに没入する事なりと言う事でありますね。真の信心とは神様のいわゆる、今日の秋山さんの話もそうでした。神の願いに没入するねもう自分がない。神様にもう任せ切ったいわば状態になると言う事です。
 という話をまあ大変まあ早起きして、御理解頂いて有難いなと思うて頂いたんです。御理解頂きよりましたら、久留米の佐田さんと、久富くにかさんが御理解の、まあ生粋のところを頂いた。佐田さんが頂かれたかちょっと忘れましたが、久富さんが頂いて居られるのはね、私共が神様の心に没入すると言う事は、どう言う事かと言う事を私が説いて居る時ににね、お言葉で頂いて居られるのが「命貰います」という言葉を頂いた。
 命貰いますと、こりゃもう唄の文句じゃないけれども「命預けます」なんていう生優しいものじゃない。預けたかと思うたら又くれんのと言われる。だからそう言う事じゃいかん。だからもう「命貰います」と神様が言うてござる。貰いなさらなければね、ほんとの神の働きを出来なさらんと言う事になってくるんです。今朝のご理解もそこのところだった。何故神様がほんとの氏子の命を貰い受けなさらなければならないか。そこでなら私共はです「命差し上げます」と言う事にならなきゃいけんのです。
 命預けますじゃいかん。そりゃもう命預けますじゃ合楽には、たくさん居ったばってん信心を止めた人がありますよ。ほんとに親先生に命預けるという程しの人があったですけども、やっぱ又預けたけど又下さいちゅう様なことで、ほんに手紙一本で止めた人がありますからね。だからあてにゃならんです。だからその命をね神様は貰います。だからこちらはこちらが命上げますと、言う事にならねばいけない。まげんみつに言うとそう言う事になりますね。
 物質文明の時代いわゆる科学万能の時代、そういう時代からいわゆる心の時代、それを私は和賀心時代に突入したと、四十年代という時代はそういう時代なんだ。人間の知恵力で月の世界に行く程しのことが出来る程しになったけれども、人間の幸福というものは如何ともすることは出来ないじゃないか。そんならばとその学者達が言うて居る事は、これはもう心だと言って居るね、ですから必ず心万能の時代が私は来ると思う。近いそれは遠い将来かも知れません。千年万年かかるかも知れませんね。
 心万能の時代が来る。しかもその心は心だけじゃあない、和賀心時代という、ものを私共お道の信心さして頂く者は、目指させて頂く訳なんですけれども、そういうまあとてつもないお互いが願いを、まあ神様の願いがそこにあるのでございますから、私共その願いを願いとして願えれることこそ、神の願いに、没入することではなかろうかと私は思う。自分一人の事、自分一家の事だけというのじゃなくて、この祈りがいわば清い力が段々大きくなって参りますとです。
 この力はもう、段々沢山のものを持たなければ居られなくなって来る訳ですね。だから先ず力を頂く清力を受けること、と言う事になります。どうぞ信心はだから容易う行くが良い。けれどもその容易うてもです、それこそ御神米とか御神紙と言う様なその甘く見らずに、ほんとにこの御神紙によって、この御神米によってと、只金光様と唱えると言う事だけでもです、私しゃ本気でそれが地に付いて仕舞う、血肉になって仕舞う程しのところを先ず頂いてそこから。
 秋山さんが言われる神の心を分からせて貰うて、神の願いに突入して行けれる信心、本気で神様任せになれれる信心。この辺の時になって参りますと、ちったあ難しい苦しいけれどもですやはり有難いね、だからこの辺とこまでは親鸞上人のですね。苦しい自分は苦しいけれども、やはり阿弥陀様の懐の中だと。もうこげな苦しい事があろうかと思うけれども、神様が見て居って下さる世界なのだ。
 親先生がお取次をして下さっておるお取次の働きの圏内にあるのだと思わせて頂いたら、有難うなって来る楽しゅうなって来る。苦しいことは間違い無い。けれども段々その力その事に依って辛抱して行く内には、徳が受けられると仰せられる。辛抱して行く内には清力が身に付いて来る。そこからいわば楽なおかげが頂ける。横8じゃないけれども無限大、無尽蔵、限りのないおかげが頂ける。どうでしょうかね、十八日にお月次祭が、あの様に十九日が前夜祭がやっぱりあの様にしてある。
 そして二十日はそれこそあの様に、にぎにぎしいお大祭が迎えさせて頂くことが出来た。一日置いて今日二十三日お祭りを仕えさせて頂いたら、これこそ今迄見たことも聞いたこともなかったごたるお供えが集まって来て居るね、そして何とはなしに、もう昨日一昨日お大祭を仕えたと言った様な気分はさらさらない。有難いです、お大祭を境に久富さんがお初穂を整理しながらですね、いつも御大祭が過ぎると、ちょっとこう落ちるんですけれどもねお初穂が。ところが先生一桁づつ上がっていって居ります。
 百円だったつが二百円になっている。しかも毎日おんなじようである。不思議なことですねと言うてからお初穂の整理をしながらそんなことを話して居られましたね、これこそ無尽蔵、無限、限りが無いおかげが頂ける、ここはもういわば楽に合うた世界である。合楽の世界ね、そこで私共生身を持っているから、そげな良かことばっかりなかけれどもね、けれどもですね、例えば肩が凝ってこたえんというてね、誰も揉み解してくれる人が無いごたるならこれは地獄。
 はあほんにもう水が飲みとうしてこたえん、ひとしずくの水でもというて与える人のなかならどうですか、これは地獄。ところが私の様に朝から晩までこうやってお水を頂いて居る者がほんとにお水が頂きたいと思うたら、ここにちゃんと氷水があるんだから、これはもうそれこそ、喉が渇かん者じゃ分からん有難さがある訳。これが極楽。そうですよ皆さんが痒いかときっさちょいと掻いてくれという奴が居るとは、あそこそこち言うちから気持ち良うてこたえんでしょうが。
 そればってん痒かばってん手が届かん人がおらんで、こうこうしようごとあるなら地獄。けれどもね、ちゃんとそこに掻いてやる人が居るならね、これはもう極楽です。これはね生身を持って居る人間ですからなら、痛いもある痒いもあるけれども、そこにはちゃんとおかげの世界があると言う事ね、もう徳を受けてそげな痛いことも痒いことも、どうもなかと言う事はなか。或時に金光様の三代金光様の、お面倒をなさる方のお話を聞いたんですけれども、金光様は痔が大変悪かった。
 金光様はね私共知らんばってん、こう手擦りの所をこう回って行かれるんだそうですね、所がもうけたたましい時にはね、ポーンと向こうへ飛びなさったそうです。廊下から向こうへ手擦りの上へ、そげになるまで座って居られた。そしてならお便所の中にはよく血の塊のような物が一杯血が滴れる様に、便所の中に一杯なってる事がある。生身を持って居られるからね。やっぱり痛みもありゃあ痒いみもありなさる、けれどもあれを黙ぁってお座りになって居られる所に、金光様の金光様たる所があった訳です。
 先月お参りさせて頂きましたら、この人差指のここのところに御神米を必ずこう貼って居られましたね。あれはもう御神米をずうっとお下げになるから、ここのところが切れて赤切れになっとった訳ですね、それこそ皆生神様と拝ませて貰う、そういう御神徳を受けて居られる方でもやはりそうなのだから、生身を持ったら確かに修行、けれどもそこにはねそれこそ、痒ければ掻いて貰えるちゃんとおかげが頂けれる。喉が渇いたらそこに氷の様な清水がそこにちゃんとあると言う事。
 これはまあ極楽のうちに入れなければならんのじゃないでしょうかね。私が今朝から頂くとは合楽、成程合楽に教会が生まれたと言う事ね、玉水さんが日本一と言われたが、それこそ玉水(ぎょくすい)と書いてある。玉のようなお恵の水が湧いて出とる所に玉水教会の先生が道を開かれた。ここでは合楽というそれこそ、楽に合わせて頂けるおかげの頂ける信者が、ここに数限りなく集まって来て、その楽に合わせて頂くおかげを蒙って頂かなければ、御神意に添う事にはならないね。
 合楽の人達が何時までも、楽に合われないと言う事はあってよかろう筈が無い。為には今日私が申しました様に、少しはね難しいけれども楽しいという信心の楽しみが、分からせて貰うおかげを頂かせて貰うて、容易う難しゅうそして楽におかげを頂けれる道、その辛抱して行く内に、徳が受けられると仰せられる、お徳を身につけて行くことの楽しみをです、噛みしめさせて頂きながら、日々の信心生活を頂いて行きたいと思います。
   どうぞ。